日記

 最近あまり日記を更新しないのは、変化の無い生活を送っているから。それでもこれまでは少しは何かを考えたり、思ったりしていた。ところがここ2週間は思うところがほとんどない。勿論、『エンタの神様』に出てくる“小梅太夫”という番組サイドから可哀想なキャラを付けられてしまったであろう芸人のこととか。それなりに思うところはあるのだが、それはどれもテレビだとか本だとかのことが多くて日記にまで書こうとは思わない。しかしきっとテレビのこととかを書いて、1年後ぐらいにその日記を読み返して、そういやこの時俺はこんなことを考えていたのだなあ。と、思い出すことも日記の1つの役割であると思ったのでテレビについて書こうかと。しかしこれはやはり少し恥ずかしい。恥ずべきことだと考えてしまう。
 世の中、野村沙知代であるとかデヴィ・スカルノであるとかのゲテモノを求める傾向にあるのは言うまでも無い。今はやはり細木数子であろうか。そんな中でこれも一種のゲテモノなんじゃあねえか?と思うのが超能力捜査とか動物と話すとかそういったもの。
 UFOやUMAなんかはこれは信じる人もいれば信じない人もいる、ということを前提に番組は制作されているわけだが、超能力捜査と動物と会話出来る女は有無を言わさず“ある”ことを前提に放送されてしまっていると感じてしまう。中でも志村けんが司会を務めている動物番組に出てくる動物と話が出来るおばさん(欧米人)からゲテモノ臭がプンプンしてくる。
 彼女は犬や猫だけではなく、象やその他あらゆる動物から直接話を聞き、飼い主の悩みを解決したりしてくれるという人間を超越した能力の持ち主である。つまり動物の言葉がわかるのだ。でもどうして動物の話はわかるのに日本語がわからないのだろう。日本人とは通訳を介して話をする。人間以外の動物は同じ言語を話すのだろうか。柴犬とプードルでさえ、日本人とフランス人ぐらいの違いがありそうなものなのに、彼女は猫とも象とも話せる。しかしどうにも日本語はわからないのだ。いや、日本語も本質的には動物とコミュニケートするのと同様には理解しているのかも知れない。ただ彼女からこちらへ日本語を伝えることは出来ないという可能性もあるな。それか動物は人間ほど複雑な言語体系を持ち合わせていないから、ある一定のパターンが解れば何を考えているか図れる、とかだろうか?
 いっそ動物の行動心理学を独学で学んで身に付けた、と言ってくれればすんなり受け容れられるのに、「動物と話が出来る」と言ってしまうから話がこんがらがる。いかにも人の善意に付け込む商売のやり方だと穿って観てしまう。まあ本当に動物と話せるのかも知れないけどさ。あとやっぱり『ジョジョの奇妙な冒険』って面白い。1部から読み直してる。改めて荒木飛呂彦の偉大さを噛み締めている。そして飛呂彦は老いない。っていう俺の最近の脳内。