日記

「もしもし?○○だけど……」
太陽が完全に揚がってからようやく眠りに就いたというのにそんな電話が掛かってきた。電話の呼び出し音で目を覚ましたばかりの僕はよく聞き取れなかったので、ちょっとどなたか判りかねますので是非とも今一度名前を教えて下さい。との旨を訊ねたところ「○○だよ……。△△○○」。何と僕と全く同じ名前ではありませんか。苗字まで一緒だとは。生まれて初めて同姓同名の人間に出会えた(電話越しだが)感動に打ち震えていると○○さんは電話口でごめんなさいごめんなさいを繰り返している。何故いきなり電話を掛け、ごめんなさいと謝らなければならないのかを訊ねるとどうやら事故を起こしてしまったらしい。それも人身事故だそうだ。当初から涙声だった○○さんの声は次第に嗚咽に変わってきており、人身事故を起こしてしまったという内容を僕に伝える段階に至るとそれはもう殆んど聞き取れるものではなく、何度も何度も言葉を反芻しようやく理解することが出来た。このままでは会話が成り立たないと感じた刹那、僕と同様の感情を抱いたのであろう警察官の方が○○さんと電話を代わった。その警察官の話を整理するとこうだ。
今日の正午過ぎ、△△○○さんが国道□□号線で不注意運転の為に人身事故を起こしてしまった。○○さんは幸い軽傷で済んだのだが残念なことにこれは人身事故。相手側は若い夫婦とのこと。運転していた旦那さんは何ともなかったのだが奥方は妊娠中。外傷は見られないが今精密検査をやっている。もしお腹の赤ちゃんにもしものことがあったら大変なことになる。これは本当に大変だ。このままでは○○さんは交通刑務所行きとなってしまう。しかしながら相手方は示談金300万円を支払ってくれれば文字通り示談にしてくれると言っている。
ということらしい。これは○○さんにとってはかなり良い条件なのではないか。交通刑務所に入って前科を付けてしまうぐらいならお金で解決した方が良い。これが非常に不謹慎な言い方だとは認識している。若し赤ちゃんに万が一のことがあってしまい、それをお金で解決しようなんていうことはあってはならない。しかし現在の段階では相手方もそれで納得しており、○○さんにとっても決して悪い条件ではない。それは良いじゃないですかと受話器の向こう側にいる警察官に言った。それでは銀行に着いたら折り返し電話して下さい。口座番号を教えますので。と警察官が言ってきたのでここで僕は初めて疑問を抱いた。
警察官のこの語り口はいかにも僕に示談金を用意しろと言っている口調で何とも納得がいかなかった。同姓同名ということ以外関係は何もないのにどうして僕が△△○○さんの起こした事故の示談金を払わなければならないのか。心の中でそう思ったし、実際に警察官にもそう伝えた。すると警察官は△△○○さんが起こした事故なのだからあなたがお金を用意するのは当然だと言う。ここでようやく合点がいった、と同時に新たな疑問、それは恐怖とも表せる、が生じた。△△○○さんは同姓同名の人間ではなく僕自身だったのだ。僕が事故を起こしてしまっていたなんて……。それじゃあどうして僕は今ここにいるんだ?事故を起こしてしまった僕は警察署でぼろぼろと涙を流しているんだろう。でも今僕は警察署にはいない。というか家にいるのだ。電話が来るまでは寝ていたし。事故を起こした△△○○は僕で、今ここで逡巡している△△○○も僕なのだ。これは一体……?ドッペルゲンガーっていう現象か?確かに思い当たる節はある。ドッペルゲンガーがどのような心理状態で発生するかはわからないが最近は就職のことで悩んでいたし、自分とは一体どういった存在なのだろうかと就寝前に思いを巡らせた。意識だけを残し、体だけが車を運転し、自分探しの旅等という何とも下らない行為に及んだのだろう。そして今いるこの僕は意識としての△△○○なのだろう。また精神を揺さぶられたら今度は意識が分裂して別の意識の僕として動き出すだろう。きっとこの警察官からの電話は更に僕の意識を分裂させようとしているに違いない。意識の僕は今単細胞生物。一つが二つに、二つが四つにとこのままではどんどん意識の僕は分裂していってしまう。ヤバい!何とか意識を繋ぎ止めないと取り返しのつかない事態になってしまう。
受話器からはもしもし?もしもし?と僕の応答を求める警察官の声が聞こえていた。ようやく発した僕の「はい」という声は何ともか細かった。心許無い音を発して初めて意識の僕に僕の意識がもうすぐ分裂してしまうことを僕に意識させた。これ以上分裂するわけにはいかない。何とか肺に空気を入れ、横隔膜を動かし最後の(そう意識していた)怒声を受話器に浴びせた。
「お前が俺のアイデンティティを崩壊させようとしてることはもうわかっとるんだからな!俺の自我は俺の自我なんだ!ボケカス阿呆うんこ!そこにいる俺の体の方がいるだろう!?」
「は?」
「は?じゃねえよ。何が『は?』じゃ、阿呆。そこに俺がいるだろうが、さっき泣きながら電話してきた△△○○だよ!そいつに早く家に帰ってくるように言ってえ!そうじゃないと俺の意識が……というか何だ?嗚呼っ!意識の俺だよ、意識の俺そうだそうだ意識の俺が分裂するからヤバいことになるんだよ!だから早くそいつをうちに帰させろ!」
気が付くと僕は体中の(意識の僕にも物理的な肉体はあるのだ)穴という穴から液体を噴出していた。勿論涙も、というか涙がもっとも沢山出ていた。すると警察官はそんな僕を意に介さず恐ろしい言葉を吐く。
「ちょっと落ち着いて下さい。さっきから一体何を言っているのですか?△△○○さんが帰るのには示談金が必要なんですよ。ですから示談金を支払って頂ければすぐに帰らせますから。ね?落ち着いて下さいよ」
「な!何を言ってるんだお前は!?さっきから言っているだろうが!そいつが帰ってこないと、そいつと俺が元の通りに一つにならなければ俺がどうなるかわからんのか?俺が分裂してしま……嗚呼!!してる……!分裂してるぅ!ヤバいって言ったじゃん!ほらほら来てる来てる来てるって!!本当に嗚呼糞お前のせいだぞ!お前が早く体の俺を解放しないからこんなことになったんだからな!!警察官か?お前みたいな奴が何で警察官なんかやってんだよ!ほらほら来る来る来る!来てるもん!今すぐそこに来てるもん!ほらまた分裂しやがった!これで今何人の意識の俺がいるかわかる?もう8人もいるんだよ!どうするんだよ!?お前マジで何しとるんか!警察官!うわっうわっうわっ……おほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ、お前らこら架空せ……」



※全くのフィクションです。